伊万里焼は日本で最も有名と言っても過言ではなく、今でも続く焼き物として有名です。
当初は有田で作られていたことから有田焼とも呼ばれます。
多くの様式や作家が生まれ、古いものは価値が高くコレクターにも人気です。
そんな伊万里焼ですが、時代や作家により価値が大きく変わります。
このページでは古伊万里や初期伊万里、柿右衛門様式などについて解説いたします。
また、土の様子がわかる写真もございますので、ぜひお楽しみください。
目次
伊万里焼(いまりやき)とは
伊万里焼は江戸時代前期から焼き始められ、肥前国(現在の佐賀から長崎県)のうち、有田(佐賀県有田町)を中心に生産された磁器のことを言いました。
名称は磁器の積出港であった伊万里津(いまりつ)に由来します。
近代になると伊万里焼は伊万里市大河内町など広く焼かれるようになり、伊万里焼と呼ばれるようになります。
それに伴い、区別のために江戸時代前期の頃を古伊万里や初期伊万里と呼ぶ場合もございます。
伊万里焼と有田焼(ありたやき)の違い
骨董のことを調べていると伊万里焼と有田焼はほぼ同じ意味で紹介されており、この認識はほぼ間違っておりません。
元々は有田で生産されていましたが前述の理由から「伊万里焼」の名称が普及しました。
そのため、初期の伊万里焼も有田で作られていたので有田焼と呼ぶ人もおります。
「有田焼」という言葉は明治時代以降に有田産の焼き物に対して使われるようになったとされます。
現在は伊万里地区で作られたものを「伊万里焼」、有田地区で作られたものを「有田焼」と大別しています。
概ね以下の認識で良いかと思います。
・江戸時代に有田で焼かれた→伊万里焼(有田焼でも可)
・明治以降に伊万里地区で焼かれた→伊万里焼
・明治以降に有田で焼かれた→有田焼
伊万里焼の歴史
伊万里焼・有田焼の始まりは江戸時代の1610年代とされ、日本で最初の磁器と言われます。
佐賀藩(鍋島藩)の藩祖である鍋島直茂が参加した朝鮮出兵とも呼ばれる文禄・慶長の役(1592年 – 1598年)の際に朝鮮から多くの陶工が佐賀へ渡りました。
この陶工らが有田の泉山で磁器の原料となる陶石を発見したことにより、有田の窯により本格的に磁器製造を始めたとされています。
これが伊万里焼・有田焼の始まりとされています。
時期が最初に焼かれた窯は諸説あり、有田東部の天狗谷窯とする説、有田西部の天神森窯、小物成窯、小溝窯とする説がございます。
1637年には鍋島藩が焼き物産業推進方針を決めたことにより、窯場は13に整理され本格的に伊万里焼・有田焼産業が発達することになります。
古伊万里や初期伊万里、さまざまな様式
古い伊万里は「初期伊万里(しょきいまり)」や「古伊万里(こいまり)」などと呼ばれ、伊万里焼の中でも価値が高くなります。
どちらも古いという意味を持ち、少し曖昧な使われ方をするため困惑をする用語なのでこちらでご説明します。
また、同時期に生まれたさまざまな様式についても解説します。
古伊万里(こいまり)
現代の伊万里焼と区別するため、江戸時代の伊万里焼を「古伊万里」と呼びます。
後述の初期伊万里や様式はこの古伊万里に含まれます。
この古伊万里という言葉の使われ方は骨董屋により使われ方が違うので少し注意が必要です。
初期伊万里(しょきいまり)

初期伊万里
1610年代から1630年代頃までの初期に焼かれた伊万里焼を「初期伊万里」と言います。
この時期は白磁に藍顔料で模様を描いた染付磁器が主流であり、素焼きを行わず絵付けをする「生掛け」技法を用いているのが特徴です。
また、この頃の伊万里焼は朝鮮半島から渡来の陶工が携わっており、砂目積みなどの技法使われているものもあります。
古九谷様式(こくたにようしき)

古九谷様式
1640年代に有田西部で色絵磁器が生産が始められました。過去には石川県の九谷が産地と考えられていたが、実際には伊万里の陶磁器とされたことから「古九谷様式」と呼ばれるようになりました。
「初期色絵」とも称されます。
鍋島様式(なべしまようしき)

藍鍋島
1640年頃には鍋島藩直営の窯(御用窯)であり、将軍家や諸大名への贈答品として高級品を焼きました。
器面に描かれた絵も伊万里焼の中でもとても精巧でした。
伊万里焼の一様式として鍋島様式とも呼ばれますが、鍋島焼として独立した呼称も使われます。
鍋島焼は当時から言われていたものではなく、近代以降に使われるようになります。
柿右衛門様式(かきえもんようしき)
1670年代には酒井田柿右衛門の柿右衛門窯にて、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地に赤・黄・緑・青・紫などの色絵が施された磁器が作られます。
絵師の手により余白を生かした左右非対称な繊細な絵付けが特徴です。
この様式に倣ったものを「柿右衛門様式」と呼び、海外への輸出品として根強い人気がございました。
現在における「柿右衛門」は柿右衛門家のみで焼かれた作品という定義であり、この様式とは異なります。
古伊万里金襴手(こいまりきんらんで)

古伊万里金蘭手
1690年代には染め付けに赤や金を多用した製品が作られるようになり、「古伊万里金蘭手」としてヨーロッパ向けの輸出品となりました。
この古伊万里様式のことを古伊万里と呼ぶ方もいらっしゃいます。
伊万里焼・有田焼の特徴

初期伊万里の土の様子
伊万里焼は泉山などで取れた陶石から作られる磁器土を用います。
透明な釉薬を掛けて高温で長時間焼き上げて作られ、軽く硬質で耐久性に優れた磁器が出来上がります。
美しい純白ときめ細やかな地肌が特徴で、かつてはヨーロッパから「白い金」と例えられたほどです。
滑らかな地肌は絵付けに向いており、染付や色絵が施されたものが多くございます。
時期や描かれた絵、作られた窯によりさまざまな様式で呼ばれました。
当オンライン美術館で見れる伊万里焼・有田焼
初期伊万里鳥文皿

浅く小さめな器形に中央の見込みを丸く枠を作り窓にし、草花鳥が染付で描かれます。
口の一部が割れており、初期伊万里の土の様子を見ることができ、とても白い土が使われていたことがわかります。
初期伊万里の様子がわかる資料として大変おすすめです。
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古伊万里金蘭手於福香炉

お福は縁起物で招福開運や豊穣、夫婦円満の神様です。
白い器面を生かした表情はとても柔らかく豊かな表情で綺麗に化粧がされます。
着物はシワや帯の紐まで細かく凹凸がつけられ金蘭と色絵で鮮やかに、青海波、もみじ、桜、川などがバランスよく描かれます。
手に持った巾着まで模様を変えられるほど豪華な作りです。
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古九谷様式 色絵五三桐文方形小皿

裏に入る「角福」銘は1630年ごろから吉祥を意味する銘款の一つとして伊万里や九谷で使用がされたものです。
見込みには天皇ゆかりの家紋である五三桐文を5つ色絵で斜めに配置されます。
赤の線描きに赤、黄、緑の絵具がはみ出ることなく丁寧に色付けされます。
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